> index

セカンド・フォリオとは?

セカンド・フォリオ(第2・二つ折り本)はMr. William Shakespeares Comedies, Histories, and Tragedies(『シェイクスピア戯曲集』)の第2版で第1版(ファースト・フォリオ)と同様にフォリオ版で出版されましたので、その呼び名があります。ファースト・フォリオの出版から9年後の1632年に出版されました。ファースト・フォリオの出版は複数の人々の共同事業でした。印刷所はウィリアム(父)とアイザック(息子)のジャガード親子の店、資金を出資した出版者たちにはエドワード・ブラウント、ジョン・スメズウィック、それにウィリアム・アスプレイがいたことが、ファースト・フォリオの表紙と奥付からわかります。印刷者以外に表紙に名前が載っているのはブラウントだけですが、それは、ジャガードとともに、恐らく、この事業の中心的推進者であったためと考えられています。



ファースト・フォリオ表紙のインプリント(印刷出版情報)



ファースト・フォリオの奥付


一方、セカンド・フォリオの印刷・出版に関わった人々は、セカンド・フォリオの奥付で知ることができます。


セカンド・フォリオの奥付


トマス・コウツはジャガード印刷所でジャガード父のもとで徒弟に入り仕事を覚えた人物で、ジャガード父のウィリアムが1623年に、その後店を継いだジャガード息子のアイザックが1627年に相次いで亡くなったのをうけて印刷所を受け継ぎ事業を発展させました。スメズウィックとアスプレイは前回から引き続いてのメンバーですし、リチャード・ホーキンとリチャード・メーエンは『オセロー』と『ウィンザーの陽気な女房たち』の現版権所有者として加わったものと考えられます。1630年にブラウントから関連する版権を委譲されていたロバート・アロットは、初版でのブラウントが果たした役割を継いだ人物という立場だったでありましょう。事実、ブラウントは1632年に亡くなっていますが、セント・ポール寺院境内の書店群の一角を占めるブラウントの書店「黒熊堂」を引き継いだのはアロットであったことがわかっています。

同じ肖像画を使い、ペイジが1対1で対応するうり二つのフォリオはこうして先代の事業を引き継いだ人々の連合体に引き継がれて誕生しました。ただ、ファースト・フォリオでは同一表紙がすべての連合体メンバーの用に供されたのにたいし、セカンド・フォリオでは出資者それぞれに専用の表紙が用意されました。ここでは、明星大学図書館が所蔵するセカンド・フォリオからそのいくつかをご紹介しましょう。


ホーキンス用表紙 (MR 3199)



メイエン用表紙 (MR 4355)



アロット用表紙1刷り初期 (MR 3606)


アロット用表紙は上記を含めて知られている限りで4つの違ったヴァージョンで現存しています。


アロット用表紙1刷り、後期 (MR 3571)



アロット用表紙2刷り (MR 782)



アロット用表紙3刷り (MR 783)


ミルトンの初出版

表紙のどのヴァージョンにせよ、表紙(πA2)が印刷されているのと同じ紙の別の半分(πA5)にはシェイクスピアを頌える2編の短詩が印刷されています。どちらも作者名は印刷されていませんが、下方の16行からなる1編「驚異の劇詩人W.シェイクスピアによせる墓碑銘」(‘An epitaph on the admirable dramatic poet, W. Shakespeare’)は、詩人ジョン・ミルトン(John Milton, 1608-74)の作であることがわかっています。表紙が何度か印刷されなおしているように、この詩にはマイナーな異同ですが、3種の状態(‘state’)が残されています。ここでは、MUSCで公開しているコピーの画像で見ることにしましょう。




名台詞の数々を胸に刻みつけるわれわれ読者はシェイクスピアの偉大さを伝える永遠のモニュメントだと詠うこの詩は、1645年に出版された詩人初の『詩集』に1630年という年号とともに ‘On Shakespeare’ というタイトルで再録されていますので、セカンド・フォリオはそれよりはやくに、英語の詩としてはミルトン初の出版の舞台になっていたことになります。『詩集』の示す年号が正しいとすれば、この詩はミルトンがケンブリッジ大学で修士号をめざしていた22才頃の作品ということになります。シェイクスピアはブランクヴァースの達人でしたが、ミルトンもまたやがてブランクヴァースを駆使して神による人類救済のテーマをあつかう一大叙事詩『失楽園』(Paradise Lost、1667)を執筆することになります。

 学識に富み高潔な人柄で音楽家として知られるミルトンの父親はセントポール大寺院にほど近いチープサイドで、家紋にちなんだスプレッド・イーグルの看板のもと、オフィスを構える公証人としても成功をおさめた人でした。母親は慈善家として近隣に知られていたようです。『出版されたシェイクスピア』(Shakespeare in Print, 2003)のなかで著者アンドルー・マーフィー(Andrew Murphy)は、セカンドフォリオ出版で中心的役割を果たしたコウツ兄弟のアイディアでご近所の息子さんの詩を第2版の前付けにおさめることになったのではないか、と推測していますが(p. 52)、こんなところにもセカンド・フォリオの出版をめぐる人々のつながりや意気込みといったものが伝わってくるように思われます。

 ミルトンの詩を含む2編の詩(sig. πA5)とI.M.S作「偉大なるシェイクスピア氏とその詩によせて」(‘On Worthy Master Shakespeare and his poems’ )(sigs. *3 and *3v)とがセカンド・フォリオで加わったあたらしい文書のすべてです。当然その分、セカンドフォリオはページ数が増えるわけですが、戯曲を収録している方のページに従来あった4ページの白紙ページが2カ所削除されていますので、二つのフォリオの総ページ数はどちらも908となっています。

 セカンド・フォリオのペイジ対応型リプリントについては、不十分な校正作業のためかシェイクスピアの本文に新たな植字ミスを多く導入する結果となったことが指摘されてきました。そもそも、第4フォリオを土台にスタートした18世紀の編纂家たちがたどり着いた結論も、本文復元の目的では4つのフォリオのうち重要なのは最初のものだけだ、というものでした。しかしながら、本文復元作業の科学性への幻想からさめた現代においては、セカンドフォリオ本文に加えられた意図的変更に無署名ながらたずさわった「編集者」の仕事ぶりがむしろ評価を受けるようになってきています。まずは変更箇所の数字データをあげておきましょう。これは『17世紀のシェイクスピア編集者たち』(Shakespeare’s Seventeenth-Century Editors, 1632-1685, 1937)で著者のブラックとシャーバー(Matthew W. Black and Matthias A. Shaaber)が示したものです。数字にはファースト・フォリオの明らかな誤植を訂正しただけの変更箇所は含まれていません。
      変更箇所総数 1679

       内訳 文法にかかわる訂正変更 459
          内容にかかわる訂正変更 374
          韻律にかかわる訂正変更 359
          文体にかかわる訂正変更 357
          上演にかかわる訂正変更 130
これらの変更の多くは現代版に至るまで採用され続けていますが、内容にかか わる訂正変更から一例を挙げ、彼らの仕事ぶりを具体的に見ておきます。
       F1: Plantaginet I will, and like thee,
          Play on the Lute, beholding the Townes burne:
一行目のtheeが誰を指すのか不明なため「炎上する街々をみながらリュートを奏でよう」が今ひとつよくわからない台詞になっています。セカンドフォリオはそこを、
       F2: Plantaginet I will, and Nero like will,
          Play on the Lute, beholding the Townes burne: (1 Henry VI, 1.4.95-96)
と訂正しています。かの暴君ネロはローマが焼き尽くされるかたわらでリュートをつま弾いていたとの故事をふまえ(た台詞であるとの解釈にもとづい)ての変更と思われます。故事の知識を持たない読者にもわかりやすくなったといえましょう。この後、この半行はポウプやマロウンらによって様々なフレーズへと改訂されてきましたが、ネロという名は本文にとどめおかれてきました。現代にいたっても、本データベースの幕場行検索の基礎となっているリヴァーサイド版では、
          Plantagenet, I will, and like thee, [Nero,]
          Play on the lute, beholding the towns burn:
と、慎重ですが、アーデン3シリーズ(ed. Edward Burns, 2000)では括弧をつけずに ‘Plantagenet, I will; and like thee, Nero, / Play on the lute, beholding the towns burn’ となっているのです。

 ともあれ、この大きな本が10年を経ずして重版されたことは、初版の人気と需要の高さを物語るといえましょう。セカンド・フォリオの出版翌年、清教徒にしてパンフレット作家、ウィリアム・プリン(William Prynne, 1600-69)は『俳優亡国論』(Histrio-Mastix, 1633)なる演劇を攻撃する論文を出版しています。なかでプリンに、シェイクスピアの戯曲集がおおかたの聖書よりはるかに良質のクラウン紙に印刷されている、と嘆かせたのはこのセカンド・フォリオの出版だったとされていますが、ファーストフォリオに比べても、セカンドフォリオでは全ページの紙が均質でその点でも整った美しい印象を与えます。




March 31, 2006

> index